日蓮とその一門が生きた時代~やせやまい(痩病)と疫病を越えて

【 建治から弘安にかけての疫病と体調不良 】

現在、世界各国は新型コロナウイルスの感染拡大を食い止めようと、人間存在をかけての総力戦の真っただ中にありますが、日蓮大聖人の生きた鎌倉時代も疫病の流行が繰り返されては多くの人命を奪っていました。

特に建治3年(1277)から弘安元年(1278)にかけての疫病は、大変に深刻なものだったようです。

今年は疫病と申し、飢渇(けかち)と申し、とひくる人々もすくなし。たとひや(病)まひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべきに・・・

時光殿御返事・弘安元年(1278)7月8日

*疫病と飢饉による食物の欠乏により、身延を訪れる門下が少なくなっていることがうかがわれます。

抑(そもそも)、去々・去・今年のありさまは、いかにかならせ給ひぬらむとをぼつか(覚束)なさに法華経にねんごろに申し候ひつれども、いまだいぶかし(不審)く候ひつるに、七月廿七日の申(さる)の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう(国府)入道殿はいかにと、まづといて候ひつれば、いまだや(病)まず、こう入道殿は同道にて候ひつるが、わせ(早稲)はすでにちかづきぬ、こ(子)わなし、いかんがせんとてかへられ候ひつるとかた(語)り候ひし時こそ、盲目の者の眼のあきたる、死し給へる父母の閻魔宮(えんまぐう)より御をとづれの夢の内に有るを、ゆめ(夢)にて悦ぶがごとし。あわ(哀)れあわれふしぎ(不思議)なる事かな。此もかまくら(鎌倉)も此の方の者は此の病にて死ぬる人はすくなく候。

千日尼御前御返事・弘安元年(1278)7月28日

*意訳

去年、今年の(疫病の)有り様では「これではどうなってしまうのか」と心配して、法華経にねんごろに祈念していました。それでも皆さんの状況が心配でいたところ、7月27日の午後4時頃に、阿仏房が身延山に来られ、お会いして「尼御前はどうされていますか。国府入道殿はどうされていますか」とまずは聞いてみると、「(千日尼)は疫病には罹っていません。国府入道は共に身延を目指したのですが、『早稲の収穫期が近づいた。子供はいないし、いかにしようか』と考えた上で身延行きを断念し、佐渡へ帰りました」とのことで、皆さんの無事を聞いたときに盲目の人の眼が見えたような、亡くなった父母が閻魔王のもとから戻ってきたような、夢の中にいることを夢の中で喜ぶような思いでありました。本当に、本当に不思議なことです。ここ身延山でも鎌倉でも、日蓮が一門はこの疫病で死ぬ人は少ないのです。

去今年(こぞことし)は大えき(疫)此の国にをこりて、人の死ぬる事大風に木のたう(倒)れ、大雪に草のお(折)るゝがごとし。一人ものこ(残)るべしともみへず候ひき。

上野殿御返事・弘安元年(1278)10月13日

*大風が木々をなぎ倒すように、大雪が草木を圧倒するように、疫病により多くの人が次々に死んでしまい、その様は一人も残らないかのようである。

身延の草庵で御本尊の図顕、法門研鑽、弟子檀越の育成に励む大聖人を苦しめたのは疫病だけではありません。自らの体調も不良で下痢が止まらず、建治末から入滅まで続いたことが書簡での記述からうかがわれます。

将又日蓮下痢、去年十二月卅(30)日事起り今年六月三日四日・日日に度をまし月月に倍増す、定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来・日日月月に減じて今百分の一となれり、しらず教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮をたすけ給うか、地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり

中務左衛門尉殿御返事・弘安元年(1278)6月26日

*四条金吾が処方した薬で体調が回復。金吾の真心に対して「釈尊が助けてくれたのであろうか」「地涌の菩薩が妙法蓮華経の良薬を授けてくれたのであろうか」と感謝されています。一般的には人間・日蓮の強さばかりが強調される傾向にありますが、実はその優しさもまた格別なものがあり、当時の門下は大聖人の慈愛に、激励に触れる度に言い知れぬ幸福感に包まれたことでしょう。

去年の十二月の卅(30)日よりはら(腹)のけ(下痢)の候ひしが、春夏や(止)むことなし。あき(秋)すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、すこしく平癒(へいゆ)つかまつりて候へども、やゝもすればを(起)こり候に、兄弟二人のふた(二)つの小袖わた(綿)四十両をき(着)て候が、なつ(夏)のかたびら(帷子)のやうにかろ(軽)く候ぞ。ましてわた(綿)うす(薄)く、たゞぬのもの(布物)ばかりのものをも(思)ひやらせ給へ。此の二つのこそで(小袖)なくば今年はこゞ(凍)へじ(死)に候ひなん。

兵衛志殿御返事・弘安元年(1278)11月29日

*「今年は余国はいかんが候らん、このはきゐ(波木井)は法にすぎてかん(寒)じ候」「ひる(昼)もよる(夜)もさむ(寒)くつめ(冷)たく候事法にすぎて候」と、この年は又格別な寒さの身延山。そんな中、池上兄弟が届けた衣服に包まれて、これが無ければ凍え死ぬところであったとまで言われるのです。

以上の記述から、弘安元年6月の四条金吾への書簡では一旦は体調が上向いたことを記されたものの、10月には「はらのけ」下り腹が厳しくなり11月に小康状態となったことがうかがわれます。

続く弘安2年(1279)、3年(1280)の体調は落ち着いていたのでしょうか。弘安4年(1281)になると以下のような記述があります。

其の外・度度の貴札を賜うと雖も老病為るの上、又不食気に候間未だ返報を奉らず候条其の恐れ少からず候

富城入道殿御返事・弘安4年(1281)10月22日

*歳も重なり病身であり、食欲不振の状態であることがうかがわれます。

さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年十二月八日にいたるまで此の山出ずる事一歩も候はず、ただし八年が間やせやまい(痩病)と申し、とし(歳)と申し、としどし(年々)に身ゆわ(弱)く心をぼれ候いつるほどに、今年は春より此のやまい(病)をこりて秋すぎ冬にいたるまで日日にをとろ(衰)へ夜夜にまさり候いつるが、この十余日はすでに食もほとをととどまりて候上、ゆき(雪)はかさ(重)なりかん(寒)はせめ候、身のひ(冷)ゆる事石のごとし・胸のつめ(冷)たき事氷のごとし、

上野殿母(尼)御前御返事・弘安4年(1281)12月8日

*老齢の上に病が体を痛めつけていることが記されていますが、「八年が間やせやまい(痩病)」といえば1281年の8年前、1273年ですから文永10年頃、まだその体は佐渡の一谷に在った時になります。

思えば文永8年(1271)9月12日の「竜の口における首の座」以来、「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて」(開目抄)の日蓮にしてそれまでの日蓮に非ず、「余人の窺い知れない境地」に至っているのです。

一旦は死んだ人が魂そのものと化して、それは法そのものと化して生きている・・・・・

当時の大聖人の「こころ」を表現するとこのように思えるのですが、その内面は人即法、法即人であり、万物、法界と一体化して一切を掌にされるような境地でもあったのでしょう。

しかしながら、いつ何時、再びの「処刑」が告げられるかもしれない身でもあります。

それは、朝に「今日こそ臨終」、昼に「今この瞬間が最後」、夜には「明日こそが我が命根尽きる時」と、瞬時も心休まらず覚悟の日々であったことと思います。

そして、当然のことながら、日蓮大聖人は私達と同じ人間です。

度重なる難、佐渡の極寒、流人故の不自由なる生活。

過酷な環境が大聖人の体を痛めつけ、乏しき食がその抵抗力を弱めたのではないでしょうか。

【 曼荼羅本尊の図顕と教主の自覚 】

幾多の法難を越えて歳月を刻んだ体にやせやまい(痩病)。

普通だったら隠居でもするところでしょうが、大聖人にとってはそこからが出発点となりました。

曼荼羅本尊の図顕です。

凡そ法華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法なり。~今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり。されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり

御講聞書・弘安元年3月19日~弘安3年5月28日

*法華経が最第一であること、末法流布の法体たる妙法蓮華経と利生得益、専修唱題の肝要を説き、末法では曼荼羅本尊を受持し題目を唱えるべき時であることを教示されています。

言葉を変えれば、「さあ、みなさん、御本尊(曼荼羅)に向かって一心に題目を唱えましょう。すべての人が皆、成仏していく道はそこにあるのですよ。唱題の喜びをみんなで分かち合っていきましょう」との、呼びかけともいえる教示ではないかと思います。

ここで注目したいのは、「御講聞書」での教示は「末法の一切衆生が帰命礼拝する御本尊は日蓮が顕した曼荼羅本尊であると日蓮自らが定義した」ということです。

それは「日蓮が顕した御本尊(曼荼羅)以前の本尊では成仏はかなわない」ということ、同時に「日蓮以前の導師の教えでは成仏はかなわない」ということでもあります。ということは、この文には「日蓮の内面における末法の教主としての自覚が言葉(教え)として顕されている」と読み解けるのではないでしょうか。

このように、日蓮法華の信仰の集大成ともいえるかたち、また新しい信仰のかたちとして顕されたのが曼荼羅本尊でした。

【 やせやまい(痩病)の中で 】

文永10年(1273)4月25日、佐渡で著した「観心本尊抄」では「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し、月支震旦に未だ此の本尊有さず」と、自身が上行菩薩としての自覚に立たれ、付属の法体である妙法蓮華経を「一閻浮提第一の本尊」として建立することを宣言。

その妙法の五字は、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と、末法の一切衆生に授与されるものであり、受持即観心、自然譲与であることを示します。

続いて同年5月11日の「顕仏未来記」で、「此の人は守護の力を得て本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」と、広宣流布する実体を「本門の本尊妙法蓮華経の五字」とされています。

このような法門上の重要な教示の展開を始めた大聖人ですが、この頃から体調が不良になり「八年が間やせやまい(痩病)」となるのです。

遡ってみれば、大聖人は少年時代に安房の国の清澄寺にて「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へ」(善無畏三蔵抄・文永7年[1270])との大いなる誓願を立て、青年となってからは比叡山をはじめ諸山で修学研鑽を重ねます。

而るに日蓮此の事を疑いしゆへに幼少の比より随分に顕密二道並びに諸宗の一切の経を或は人にならい或は我れと開見し勘へ見て候へば故の候いけるぞ、我が面を見る事は明鏡によるべし国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず

神国王御書

修学時代には仏鏡、即ち「教相判釈は経典を読みその相(内容)によって高低、浅深、勝劣を判定・解釈せねばならない」との「経証」「文証」中心主義ともいえる姿勢を確立。その過程で「法華経最第一」の真理に至り、二千二百年以上前の釈尊のもとへと直参。現実世界に師なくして修学した人物であればこそ、経典世界、そこで説き明かされる精神世界に真の師を見出し得たのです。

立教後は「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をます」(開目抄)大難の連続でしたが、大聖人の胸中は「予仏弟子の一分に入らんが為に此の書を造り謗法の失を顕わし世間に流布す、願わくば十方の仏陀此の書に於て力を副え大悪法の流布を止め一切衆生の謗法を救わしめたまえ」(守護国家論・正元元年[1259])と立教初期の志のままに、一切衆生の捨邪帰正、成仏得道を願っての妙法弘通であり、檀越への教導、覚悟の弘法です。

竜の口から佐渡を経て身延へと至る過程で、大聖人の胸中は「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」との「開目抄」の三大誓願から「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」(一谷入道御書)へ、即ち末法の教主へと昇華されていき、内面の豊かな実りともいえる実体にして「日蓮が魂」の当体である御本尊を顕し始めます。

ところが、「出世の本懐とはこれなり」(阿仏房御書)の曼荼羅本尊を図顕する頃には「やせやまい(痩病)」が始まり、しかも平均寿命が24歳とも、40歳とも言われる鎌倉時代の中にあって、文永10年(1273)の段階で52歳なのです。

続いての、身延山入山後の建治3年(1277)末からの疫病、大聖人自身も最晩年に至るまでの「下り腹」の病気です。しかし、身は病体でありながらも、広宣流布大願成就への情熱はいささかも衰えなかったことは法門書や書簡からうかがうことができます。

彼の大集経の文を以て此の法華経の文を惟うに後五百歳中広宣流布於閻浮提の鳳詔(ほうしょう)・豈扶桑国に非ずや

曾谷入道殿許御書・文永12年(1275・4月25日改元)3月10日

大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ。

減劫御書(智慧亡国御書)・建治元年(1275)

今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。

撰時抄・建治元年(1275)6月10日

御義口伝に云く大願とは法華弘通なり

御義口伝・建治4年1月1日(2月29日改元・弘安元年)

願はくは我が弟子等、大願をを(起)こせ。去年(こぞ)去々年(おととし)のやくびゃう(疫病)に死にし人々のかず(数)にも入らず

上野殿御返事(龍門書)・弘安2年(1279)11月6日

今日蓮は去ぬる建長五年葵丑(みずのとうし)四月廿八日より、今弘安三年大歳庚辰(かのえたつ)十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。~涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云。日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし。~天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。~末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。

諌暁八幡抄・弘安3年(1280)12月

熱き情熱とは正反対の自身の体調、大流行して多くの人命を奪った疫病と隣り合わせであったことからすれば、一幅、一幅に「魂を込めて」の御本尊(曼荼羅)の図顕であったことでしょう。

このような疫病といういつ命終となるかも分からない環境下にあったこと、また大聖人自身の体調面を考慮しながら御本尊を拝すれば、「命を縮めてまでも残したかったのが一切衆生を成仏へと導く御本尊」であり、「日蓮その人が永遠の導師であり教主である当体(御本尊)」にして「永遠に生き続けるその人の魂」であると思えてなりません。

やせやまい(痩病)と疫病を越えて日蓮仏法は成った

御書を開き知るほどに、そこには多くの現代へのメッセージが込められているのではないでしょうか。

天災地変(自然災害)、飢饉、疫病、戦乱という時代の制約の中にありながらも、大いなる法によって立ち志を抱き逞しく生き抜いて、大いなる恵みを同時代に分かち未来へ伝えた人々。それが日蓮とその一門であったと思うのです。