唯授一人の相承書は江戸時代に書かれた

 私の手元に、江戸時代に書かれたある記録文書のコピーがある。

この記録文書は文化14年(1817年)、時の大石寺44代法主日宣が、親修に訪れた江戸常泉寺において、参集した信徒たちを前に語った話を、そこに参加した加賀(金沢)の信徒が記録したものである。

 その内容は、大石寺の代々の法主が大聖人の時代から脈々と受け継いできたという、いわゆる唯授一人の相承書なるものが、実は、江戸時代に初めて書かれたものであることを正直に告白したものだ。

唯授一人の相承書と言えば、かつて、相承箱なるものに大事に仕舞われて、法主しか見ることは叶わぬ宗門最重要の什物として神秘化され、どんなバカでも受け取りさえすれば即日蓮の生まれ変わりになるといった、極めてオカルト的な話で粉飾されて、法主の権威を下支えしていた代物である。

しかし、実際は、仏力・法力も感じない現実的な事情によって、江戸時代に初めて書面にされたものなのである。以下その史実を明かした記録の全文を紹介します。

日宣上人御説法聞書    文化十四年常泉寺にて

「 御相承ノ事                                                               

  皆々聞及の通り本山伝来の一大事  二月二十八日子の中刻  相違無く日量へ相渡した  是に付いて各々御心得の為申聞る候事あり  宗祖大聖人より代々相伝る処の相承十二ヶ条也  是に各々口伝あり  然る処日相上人の御代御隠居日琫上人と御内談の上  右十二ヶ条の口伝残らず御認め遊され  貫主も隠居も死に絶えても御大事は相違無く次の貫主へ渡る様に遊ばされて日相上人より某へ御渡し有った  先年日相上人御遷化の砌某御年礼に下って春彼岸の説法も相勤めた事故  其の節披露も致そうかと存たが 退いて勘え見れば餘り宜敷も無き事故  此節迄秘して披露は致さず  然る処礼師已来三人の遷化是驚いて  又思い巡らす処此已後若し貫主も隠居も死に絶えた時は本山の大事は絶えて仕舞ったと云い  皆々の疑いが起こる  これに依って拠無く右の趣披露致す  皆々其の旨御承知有る可し等云々 御両師連印の御書付け相師の御手等云々  」

(金沢市立図書館蔵文書 「村松文庫」所収の『見聞集二ノ巻之内』より)

               注:文中「二十八日」は「二十六日」の誤記と思われる

三十七世日琫は、相承を渡した泰、純、任、厳、の各師にことごとくに先立たれてしまった事によって、五度目の相承を日相に相伝した後、法主死去による相承の断絶を危ぶみ、日相と相談して、それまでの口伝相承を書面に残したのである。これを日宣が、同じく後輩法主である礼、珠、調に先立たれた為に、大衆が相承に不審を抱く事を心配して、日量への相承の後、ついに公表に及んだとのことである。

 この説法によれば、これ以前に所謂「金紙」(相承書)は存在せず、日琫・日相の時代に初めて書面化したのである。

 要するに、法主が口決相承をして次の法主になった者が、自分より先に死んだ場合、隠居の身ながら仕方なくまた別の者に面授相承するのだが、ところがそれにも先立たれてしまい、そんなことが何度も続いたので、面授口決相承できない時のために、書き物にして残したというのである。

それまでは12か条にもなる長い文言を、500年以上もの間、40人にも亘って正確に口づたへしてきたのだと、本気で信じていること自体がナンセンスだが、さらに今度は口決できなかった時のための保険を掛けたというのだ。これは言い換えれば、直接指名が有ろうが無かろうが、また面授などなくても、この書類さえ持てば法主になれるということである。その紙は江戸時代のもので、日蓮・日興には無関係のものだから、きっと、十二か条に亘って書かれた内容が重要なのだろう。しかし、その内容が理解できようができまいが、目にするだけで法主に成れるほどのものなら、皆の成仏の為にさっさと公表したら良いと思うのだが。 でも、法主に成れるだけで、成仏には関係なさそうだから、いらない