少年日蓮が学んだ安房国・清澄寺の宗旨をめぐって

少年日蓮が学んだ清澄寺。

多感な青年期の人格を育んだ山中の空間。

そこは記憶力増進の虚空蔵菩薩求聞持法の霊場にして、その宗派は台密と呼ばれる天台密教の寺というのが定説です。

ですが、私としては結論からいえば東密、即ち東寺の密教・真言宗と台密・天台宗が混在する山岳霊場・寺院であったと考えています。

「安房国清澄寺縁起」(岩村義運氏 1930)では、清澄寺の開創を以下のように伝えます。

「光仁天皇の宝亀(ほうき)二年(771)、一人の旅僧何地よりか飄然として此の山に来たり一大柏樹を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處に建立し、日夜礼拝供養怠らず」(p3)

清澄寺起源の頃の宗旨は不明だと考えられますが、「其の後六十余年を経て、仁明天皇の御宇、承和三年(836)慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處、聞きしに優る仙境に讃嘆禁ぜず、之れ仏法相応の霊地なりとし、錫を止めて興隆に力を盡(つく)し、自ら一草堂に籠りて、虚空蔵菩薩求聞持法を厳修して其成満を祈り、遂に僧坊を建つる十有二、祠殿を造る二十有五、房総第一の巨刹、天台有数の大寺となり、清澄寺の名、漸(ようや)く世に知らるるに至れり」(同書P6)と、慈覚大師円仁(えんにん・第三代天台座主)による再興を伝えます。

これは日本各地の古刹・古き寺院に伝わる、いわゆる「聖人開創譚(たん)」の一つであり伝承と考えられますが、このような物語が発生した平安時代は天台・台密の聖らが諸国を行脚して活発な布教を展開していました。安房の国の清澄寺は、再興時からしばらくは天台・台密色の濃い寺院であったのでしょう。

これが真言・東密の聖らの再興であれば、「弘法大師東国巡錫の砌、この地に」等の縁起を創ったと考えられ、「慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處」(安房国清澄寺縁起)、「房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創」(清澄寺・古鐘の銘文)との伝承に、清澄山の堂宇を整備した天台・台密系の聖らの姿が思われるのです。

くだって元暦元年(1184)5月3日、東密と関係の深かった源頼朝(1147~1199)が伊勢神宮の外宮に安房国東条郷を寄進して以降、時を重ねる過程で清澄寺に東密の進出もあったのではないでしょうか。寺伝では、源頼朝は清澄寺を尊信し、妻の政子(1157~1225)は頼朝追善のために大輪蔵を建立して一切経を収めた、と伝えています。

源頼朝が再興した鎌倉の鶴岡八幡宮寺は建久2年(1191)の火災後、上宮と下宮の体制となり、初代の円暁(頼朝の従兄弟)から5代の慶幸までは三井寺(園城寺・台密系)出身者が別当職を務め、6代目に東寺出身の定豪が就いて以降、17代までは三井寺、東寺出身者によって占められていきます。頼朝時代から東寺の勢力は伊豆・関東に進出しており、加えて鶴岡別当となった東寺の高僧につき従う僧らが幕府との関係を深め、教勢拡大を意図して鎌倉と海上交通が活発な安房国に渡り、虚空蔵菩薩求聞持法の霊場として喧伝されていた清澄寺に向かうことは、十分に推測されることではないでしょうか。

さて、窪田哲正氏は論考「安房清澄山求聞持法行者の系譜 ― 清澄寺宗旨再考 ―」(「日蓮教学とその周辺」1993 立正大学日蓮教学研究所)において、「今の段階での筆者の結論」として、「清澄山は特定の宗派に属さない虚空蔵信仰・求聞持法の霊場であり、台東両系の修学者が混住していた。日蓮と同時代頃よりは大勢として東密・真言色が濃くなっていた」(趣意)と指摘されています。

清澄寺が東密・台密の修学がなされた寺院、山林修行の霊場であったということについては私も同意見ですが、「混住」の意味するもの、その実態としては東密・台密の大衆がそれぞれの房舎に居住していたのではないかと考えています。

ここで想起されるのが日蓮大聖人の御書にある「このふみは、さど(佐渡)殿とすけあさり(助阿闍梨)御房と虚空蔵の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ」(清澄寺大衆中、1月11日付け、文永12年または建治2年)との記述で、これは「この手紙は、佐渡殿(日向・六老僧の一人)と助阿闍梨御房とが、虚空蔵菩薩の御前で大衆ごとに読み聞かせなさい」というものですが、「虚空蔵の御前」に集まる清澄寺の「大衆ごと」の意味としては、「房舎ごと」というもの、またそこには「台密、東密などの大衆ごとに」との意が含まれているように思われるのです。

「清澄寺大衆中」では日本亡国の因である真言を弘めた者として、台密の円仁、東密の空海を名指しで批判しており、文中の東密・台密批判は清澄寺大衆の信仰の内実、人物の構成がどのようなものであったかを知る手がかりになることでしょう。

「清澄寺大衆中」は長文ですので、以下に要点をまとめて確認してみましょう。

・真言宗こそが法華経を破失する教えであり、それは大事なことであるとする。

・日本国が法華経の正義を失って、大衆が悪道に堕ちてしまうのは真言宗の誤りによるとして、当時の台密寺院の潅頂などを描きながら真言批判を展開。

・真言の経典は爾前権経の内の華厳経や般若経にも劣っているのに、天台の円仁、東密の空海が経典の高低浅深に迷惑して、「法華経に同じである」または「法華経に勝れる」などと唱え邪義を流布させた。仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言により開眼供養した故に、日本国の木画の諸像は皆、無魂・無眼の像となってしまった。

結局は仏ではなく天魔が入るところとなり、祈願する檀那を滅ぼしてしまう仏像となった。王法が尽きようするのは、真言の亡国の悪法によるものなのである。この悪法・真言が鎌倉に来たり流布して、今又、日本国を滅ぼそうとしているのであるとする。

・故郷の清澄寺大衆が抱いたであろう、日蓮に対する疑念を、日本国の有智、無智、上下万民は言う。「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳よりも優れるということはない」と表現。

・日蓮はこのような不審を晴らすために、正嘉元年の大地震、文永元年の大彗星を見て考え言ったのである。

「我が国に二つの大難があるであろう。それは自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に北条義時(権の大夫殿)の子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方から起こるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これ偏に仏法が一国挙げて邪であるために、大梵天王・帝釈天王が他国に言いつけて攻められるのである。日蓮を用いないならば、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような名将が百千万人いたところで叶わないのである。これらが真でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じることにしよう」と言い広めてきたのである、として蒙古襲来による亡国以前に日蓮が説示する法華経を信仰するよう強く促している。

このような文中の真言批判と、悪法が弘まった元凶とする台密・円仁と東密・空海への批判により、清澄寺大衆の信仰の内実・人物の構成というものは、真言・東密と天台・台密であったと理解できるのではないでしょうか。

例えば禅の信奉者に日蓮法華を信仰すべきことを説くのに、東密批判をしても的外れというもので、禅に対する批判をした後、説教者の信仰を受持すべきことを説くのが布教をなす時の道理というものでしょう。

清澄寺大衆に宛てた書で東密・台密を批判し、日蓮説示の法華経信仰を勧奨するのに、「虚空蔵菩薩の前で大衆ごとに読み聞かせなさい」としたこと、即ち亡国という事態、安房に蒙古が攻め寄せる最悪の展開となる前に在山者全てが東密・台密の誤りを知るべきであるとしたところに、清澄寺大衆の信仰がどのようなものであったかを知ることができると考えるのです。

もちろん「富木殿御書」(建治3年8月23日)や「大田殿許御書」(文永12年[または建治2年か3年]1月24日)のように、一人の檀越に宛てた一書に東密・台密を批判した書もありますが、日蓮大聖人が清澄寺関係者に宛てた書については、単に「この時期は真言批判が始まった頃だから」「台密批判を盛んに行っていた時期だから」台東批判を書き込んだ、というものではないように思われるのです。

「清澄寺大衆中」

虚空蔵の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ。

「聖密房御書」

これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。(虚空蔵菩薩の前で読めば、周囲の者も耳を傾けたことと思う)

「別当御房御返事」

聖密房のふみにくはしくかきて候。よりあいてきかせ給ひ候へ。

「種種御振舞御書」

他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり。

これらの記述は当人のみならず周囲の者が読むことを多分に意識していた、また「読むべき、知るべきである」というものでしょう。このような書簡の宛先となった人物の周囲は、日蓮法華信仰者よりも念仏・密教等の他の法系に連なる人が多かったでしょうから、そこには法華勧奨をなすにあたって周囲の者が信奉する「誤れる教え」を批判する意が込められていると考えるのです。

「清澄寺大衆中」だけではなく、聖密房御書、報恩抄、本尊問答抄等、日蓮大聖人が清澄寺と周辺に送った書には繰り返し東密・台密の教理と諸師の批判が展開されています。故に清澄寺大衆や周囲の僧は、真言・東密、天台・台密の法脈が多かったと考えられるのではないでしょうか。

当たり前のように思い考えることなく受容していたことも、御書を読み解き歴史を調べれば、また違った光景が見えてくると思うのです。

                                   林 信男