熱原法難余話(三) 熱原の三烈士は三兄弟ではない?
神四郎、弥五郎、弥六郎。殉教の誉も高い熱原法難の三兄弟ですが、弥六郎さんと呼ばれてきた方は、実は兄弟ではなかったようです。神四郎さんと弥五郎さんは確かに兄弟でしたが、弥六郎さんは弟でないばかりか、名前も違ったらしい。いったいどういうことでしょう。
この三人の名前と事績は、日興上人の書かれた「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」に記されています。その正本は北山本門寺に格護されてきましたが、長い年月の間に破損が起きて、文字が一部消えてしまったところがありました。三人に関する当該部分もこの被害にあっていました。第三人目の記述部分が、行末の「郎」の字から上が五文字ほど読めなくなっていたのです。どうもこれが原因のようです。
正本の状態を記せば、
一、富士下方熱原郷住人神四郎 兄
一、富士下方同郷住人弥五郎 弟
一、富士下方熱原□□□□□郎
という状態です。
しかし、幸いなことに破損する以前の写本が、北山14代の日優さんによって残されているのです。その写本によれば、
一、富士下方熱原郷住人神四郎 兄
一、富士下方同郷住人弥五郎 弟
一、富士下方熱原郷住人弥次郎
となっています。正しくは「弥次郎」であり、「弟」との追記はないのです。
このような明瞭な写本が残っているのに、どうして弥六郎弟が出てきたのでしょう。
その答えが、堀日亨上人の「熱原法難史」(堀慈林著)にありました。以下に引用します。
「(弟子分帳の)御文は少しも異議すべき所が無いが、第三人目は正本には熱原と郎との 中五字程が欠損してをる。重須日優の寛文の写本に此れを「郷住人弥次」の五字で埋めてある。然るに此の弥次郎は神四郎の兄弟なりや他人なりやと云うに後の御文に依れば此の三人は兄弟の様である。然すれば次郎なれば四郎の兄なるべきに正本にも写本にも神四郎の下に兄と小書きし弥五郎の下に弟と入れてある例に準ずると、弥次郎の下には兄とも弟とも小書きがない。尤も兄に弥藤次があれば弥次郎が有るべきでは無かろう。他人なら知らず兄弟としたならば、弥五郎の次に列ねてあるから弥六郎か弥七郎であるべきを、優師が誤写したのでは無かろうか。此の推定を以て態と弥六郎と標して置いた.これは偏に博雅の叱正を待たんが為である」(法難史-P173)
出所は堀上人でした。つまり、堀上人は日優の写本を見ていながらも、三人が兄弟であろうという考えから、「弥次郎」は日優の誤写であると判断し、「弥六郎」と推定命名したようです。「後の御文に依れば此の三人は兄弟の様である」と言われるその「後の御文」がいったい何を指すのか定かではありませんが、管見の限りでは上代の文献には全く見当たりません。しかも、上人も認めているように、正本においても前の二人のような「兄」「弟」の小書きはなく、また日優さんの筆写内容を見ても誤写したという根拠は見られません。他の部分の筆写状況から見て、当時はまだ現在のような欠損は無かったと思われます。神四郎の兄で、裏切者で有名な舎兄弥藤次入道の名を理由に「弥次郎」ではおかしいとするのも、彼が兄弟であるという前提に成り立つことで、兄弟であるという論拠が無ければ全く成り立たちません。いずれにせよ「弥六郎」の名は、堀上人自身が命名したものであることは確かなようです。
さて、美談に少し水を差したような形になりましたが、この三烈士の事績は全く穢れるわけではありません。この三人の見事な覚悟とその一にする志は、血のつながった兄弟以上に強く結ばれた「久遠の兄弟」だったと言えるのではないでしょうか。