令和2年 1月度 座談会御書 阿仏房御書

末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。

(御書1304ページ)

「阿仏房御書」は文文句句にとらわれるよりも、いのち全体で受け止めるような思いで、一気に読んだ方がいいかもしれませんね。

この「末法に入って」というところがミソですね。

末法なんですよ、妙法を唱える人が光り輝くのは。とんでもない末法だからこその日蓮仏法。正法、像法なんかじゃない、末法という時が大切なんです。

末法って、平安時代の公家さんたちに言わせれば、「ぜったい、最悪~」「とんでもない悪世~」でして、正法滅尽、五濁悪世、法滅の時代、乱世ですから、文字を書けて読める人達、難しい顕密仏教を信仰する知識層からすれば厭うべき時代だったわけです。

「いや、そんな時代こそ、チャンスが至る所に。これ以上ない好機だよ」とばかりに、「それ以前の仏教」をバーンとひっくり返しちゃったわけですね、私達の日蓮大聖人が。いや、当時の人達からすれば、安房の国出身の一坊主が。

何をひっくり返したかって、これです。文中にある「我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」

ア・リ・エ・ナ・イんです、これがまた。

坊さんの有難い説法を聞いて、金ぴかだったり尊貴な姿だったりの仏像を拝んで感謝申し上げるだけの「役割」だった人たちを、「解き放ってしまった」んですね。

「仏とはあなた方だよー」と。

「えっえー、あの仏さまと私らが同じって、いいの、それで?」と誰しも思うところに、「何を遠慮してんの!」とばかりに、これでもかと大聖人はバンバン書きまくるわけです。

他宗の僧侶からすれば、金づちでぶっ壊されていくようなものですよ、これは。実際は日蓮仏法建設の槌音なんですけどね。

大聖人は、

「仏教は外側にあるのではないよ、あなた方の内側にあるんだよ」

「仏教が目指したもの、それはあなた方の内面にあります」

「なんで、あなたの仏を眠らせているの、もったいない。さあ、目覚めなさい」

とやって、末席から主役へと、信仰者を引き上げてしまったんです。

これ、宗教革命ですよね。

「末法という時」だからこそできた、五濁悪世に咲いた蓮華です。

永遠の聞き役だった人たちを、いきなり壇上へと導いてしまった。

二千年来の仏教の主役を入れ替えてしまったということです。

『法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり』

「そうか、私が妙法の当体なんだ。一人一人が宝塔にして、尊いものを秘めているんだ」

私が私に目覚めるということ。まさに「私の存在、あなたの存在そのものが、尊いんだ」と自覚することですよね。

気づきって私の尊さに目覚めることですから、同時に他者の尊さを思うことです。みんなが宝塔であって、仏さまなんですから、大変なことです。人を見たら拝むしかありません。でも、不軽菩薩の時代ではないので、実際にやったら通報されますから、心で他者の仏性を思うということですね。

座談会御書の後の文節ですが、

あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ~

出世の本懐とはこれなり。

ここも重要です。

「我が身宝塔」なのですが、その宝塔とは御本尊のこと。御本尊=宝塔・私達は二つにして一つ、異なることはないよ、ということです。

よく「功徳をいただいた」とか言いますけど、自分と御本尊が異ならないんですから、そんなの当たり前。「いただいたレベル」なんかで喜んでいてはもったいない。

「私は妙法の当体なんだ。御本尊と異ならないんだ。何を怖いものがある」と世の中を逞しく生きていくこと、楽しんで生きていくこと、師の姿を私の姿として示していくこと。功徳という観念を越えた喜びが、そこにはあると思います。しかも、あなたが御本尊なのですから、「私の元気を、喜びを、みなさんにおすそ分けしますよ」と、悠々たる境涯でいきたいものですね。

楽しみましょう。

以上、思いつくままの座談会御書でした。

えっ、先生の指導がないって?

いや、棒読みではかえって申し訳ないでしょう。

それより、先生の言葉を我が心でとらえ、身に沁み込ませて、自分の言葉として発していくことが、今、求められているのではと思います。