ご参考に「自主」「自発」に関する池田先生のご指導を列記しておきます。
「何でも、初めは「一人」です。「少数派」です。しかし、その小さな声が、人の「心の共鳴板」を叩くとき、一人から二人へ、三人へ、十人へ、百人へと、広がっていく。だから初めの「一人」が大事なのです。初めの「一歩」が大事なのです。始める「勇気」が大事なのです。」
「踊り出ていく」自発の信心でこそ、「永遠の幸福」がつかめる
大聖人の御心としては、それまでは彼らが自発的に行動を起こすことをじっと待っておられたのかもしれない。師匠に指摘される前に動くのが、まことの弟子の道であるからだ。
エマソンの言う「自然の教師」「自然の大学」とは、一言でいうならば、形式でも強制でもない。権威でも、また義務でもない。青年が、その魂の本然から自発的に求めてやまない、本物の「師匠」のことであり、魂の触れ合う「学びの場」のことである。
義務感でもなく、圧迫感でもない。自発の行動である。そこに勢いと歓喜が出る。それで初めて勝てる戦が始まる。
自発の心は美しい。自発の心に福運の因もある。人に言われて、いやいやするよりも、自発・能動で動けば、福徳は加速度をつけて増していく。
広宣流布のために、自発的に勇んで戦いを起こしていくのが、地涌の菩薩の精神であり、そこに、歓喜の大生命が脈動する。
自分から勇んで行動を起こそうとする自主性、自発性こそが、自らの力と歓喜を引き出す源泉となるのだ。
たかが目前の選挙ぐらいで信心を見失っていて、どうしますか。信心の原点を忘れて、いったい、われわれに何ができますか。今こそ、信心で奮い立ち、広宣流布というものへの広い視野と、深い自覚に立って、自主的に総立ちすることです。
立正安国の精神とは、それぞれが、慈悲や生命の尊厳など、仏法で説かれた哲理を自身の生き方の根幹として、人びとが幸福に暮らせる社会の実現に、平和社会の建設に、取り組んでいくことです。
それは、何も政治に限られたことではなく、文化、教育など、あらゆる分野にわたって、仏法者として社会に貢献していくことを意味します。
そして、その基本は、教団として何かを行う場合もあるでしょうが、むしろ、個人個人の自発的な行動が中心となります