2010年(平成22年)6月。池田先生が公の場に出られなくなってもうすぐ10年になります。
ここでこの10年の自分自身の人生を振り返ってみる節目なのかもしれません。そして私たちのまわりはどうでしょうか。

自由で、闊達で、なんでもいえる、時に月光のなかで語らいながら、そして「何のため」を深く問いかけながら心から安心して、和合していける世界。

権威でもなく、命令でもなく、何かを伝える人とそれを受ける人が乖離した官僚主義でもない。「私命じる人、あなたやる人」の二種類などない世界。何かの歯車の一部のように、自ら考える余裕もなく、いつしか「何のため」すらわからなくなって苦しむ人がない世界。
そして、どんなことも率直に語り合える、排除の論理がない、対話の世界。

池田先生の魂は、ここにこそ脈々と息づいていかなければならないはずです。

現在はどうでしょうか。もはや一部の人々に「任せておけばいい」という時ではないと思います。「全員が会長の自覚で」(2006年11月22日全国合同協議会でのスピーチ)と池田先生が言われたように一人一人が自ら考えていかなければならない時が来ている、そう思います。

「組織信仰」とは

「組織信仰」とあえて呼ぶのは、組織が不要ということではありません。組織活動を否定するものでもありません。しかし人間の歴史をみれば、一人の人間よりも国家や集団にこそ価値があるとする、国家崇拝、集団信仰が人間をどれほど圧迫したかを教訓として教えています。

個人より全体を重んじる「全体主義」。
例えば太平洋戦争時、「神国日本」といって国家という「集団」を神格化して、個人は国家に滅私奉公させるという国家主義は多くの民衆を塗炭の苦しみに突き落としました。
まさにこの渦中に、「国家主義」と戦って殉教されたのが、牧口先生であり、戸田先生でした。出獄後の戸田先生が「組織」をつくろうと構想されたのも、恩師を殺したこの「国家主義」「全体主義」「集団主義」にひそむ、権力の魔性と戦うためにこそだったのではないかと考えます。

その創価学会の組織が、「人間のための組織」ではなく「組織のための人間」になってしまったら大変なことです。
「組織のための人間」その危険性を感じず、
流れにただ棹さしていってしまえば、それはいつしか「組織信仰」=集団にこそ価値がある、になってしまうでしょう。

日蓮大聖人は
「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(治病大小権実違目 御書P997)と言われています。
妙覚の位ーすなわち仏であっても、無明と法性を備えている。言い換えれば、「魔性と戦い続ける人」が仏であると拝することができます。

「仏意仏勅」の「創価学会仏」も、この原理からすれば、官僚主義や権威主義などの魔性と戦い続けなければ、魔性に侵されてしまうのは当然といえるのではないでしょうか。

池田先生は常に「本因妙」ー今から、ここから、そういう生き方を教えられた。「無条件で」組織が「仏意仏勅」「創価学会仏」と考えるとしたら、それは本果妙の生き方といわざるをえず、そこにはすぐに権威主義が入り込んでしまうでしょう。

脱・組織信仰

「戸田の生命よりも大事な広宣流布の組織」と戸田先生は言われました。広宣流布に「異体同心」の「組織」が大切なことは、これまでの創価・三代の会長の歩みからも当然のことだと思います。

その上で、「なぜ」戸田先生はご自分の生命よりも大切とまで言われたのでしょうか。三代の会長の精神を未来にむかって人々の心の中に残していかなければならないこの時、師匠が「なぜそう言われたのか?」を自ら問いかけ深く思考していくことが今こそ必要ではないでしょうか。

池田先生は、
「戸田先生は「学会の組織は戸田の命より大事だ」とまで言われた。それは広宣流布を実現できる唯一の組織だからである。全民衆を幸福にするための組織だからである。」
(池田大作全集83 四国最高会議)
とおっしゃっる一方で、
「私は私の立場で一個の人間として広布を推進していく。皆さんも一個の自分がいるという決心が大事である。
組織は方便であり組織や役職に功徳があるのではない。組織の上に安住したり、官僚化してはならない。」
(昭和54年4月25日 4月度本部幹部会
聖教新聞は4月26日掲載)
と言われています。

組織は方便ーすなわち「手段」であり、目的は広宣流布の信心、師弟の精神を、一人の人の心に届けること。そして一人の人を大切にしていくこと。
そのために組織がある。
故に、その「目的」こそがなにより大事であるからこそ、戸田先生はご自身の生命よりも大事と言われたのではないでしょうか。

組織が目的になり、一人を大切にする師弟の精神が手段になってしまったら本末転倒です。しかしいつでもその危険性はあります。池田先生はこういった危険性に対し何度も警告をされています。

「どこまでも、どこまでも「人間のために組織がある」。「組織のために人間がある」のではない。この一点を諸君は永久に忘れてはならない。(中略) これは私の遺言です。」
※青春対話 創価学会の組織とは より。

何のための組織か。この「何のため」を忘れてしまうと、そこにいる人が「手段」となってしまうことの危険性の自覚と警告であると思います。あくまでも広宣流布の未来を見つめられての御指導ではないでしょうか。

人間のための組織

池田先生はそれまで目標としてきた「2005年5月3日」を過ぎた頃からとくに、会員一人一人が賢くなって、下から上を動かしてどんどん声を上げていくことが、学会を盤石ににしていくことになる旨の御指導を何度もされておられました。

その声に真摯に耳を傾けることなく、対話を拒絶し、一方的に抑えつけるとすれば、それは、まさに組織主義、権威主義であり、かつて悪侶らが犯した愚行と同じ「いつか来た道」を踏襲することになってしまう。

「人間のための組織」であり続けるためには、常に「人間」の側から、一人一人の自発能動によって、そこにいる「人間」を主役にしていく不断の精神闘争が必要です。それを可能にしていくただひとつの道ーーそれは、会員一人一人が師匠と直結し、師弟の精神という原点に常に立ち還ること。そして師の心を我が心として勇気の声を発していくことだと思います。

師匠を「心」にいだく人は強い。池田先生はこのことを私たちに全幅の信頼をもって教えて下さいました。それは一人一人が、自らの「心」にある師匠と対話し、「一人立つ」屹立した人になることだと思います。
清冽に流れる水が、汚濁を常に押し流すように、「地涌」の名の如く、心の奥底からのやむに止まれぬ自発と能動の「一人」と「一人」が、師を中心とした真の「異体同心」の和合僧を守り抜いていく姿を、池田先生は心から待っておられると信じます。

「第三代を中心に団結せよ」
(2017年4月24日 聖教新聞 寸鉄より)